本村 久子特別講師(御木本メソッドアカデミー特別講師、昭和音楽大学講師、東京ラスキン協会会員、ラスキン文庫評議員)が、御木本先生の手のブロンズ像を製作した時の様子をラスキン文庫だより第78号に寄稿しました。
御木本澄子様(一般財団法人ラスキン文庫理事、東京ラスキン協会会長)は画期的なピアノ奏法、学習法である「御木本メソッド」の創始者です。
習い事は6才6カ月から始めるという言い伝えもあるといいますが、5才の時から澄子様はピアノを習い始め、10才の時にはラジオ放送で、モーツァルトのピアノ協奏曲を演奏しました。
そして18才の時、上海フィルハーモニー交響楽団と共演し、ショパンのピアノ協奏曲第1番を演奏、高い評価を得てピアニストとしての道を歩み始めました。しかし、当時第二次世界大戦での日本の敗戦が濃厚となる中、澄子様は日本の毎日新聞社の飛行機に男装姿で搭乗し、劇的に帰国、危うく抑留を免れました。
帰国後、御木本家に嫁ぎ社長夫人となってからは社業協力で多忙になり、ピアニストとしての活躍は難しくなり、加えてご自身がピアノを弾くに当って指の力の強さの足りなさを実感されて、如何にして指の力の充実をはかるかを考え抜かれ、後の「御木本メソッド」の完成への一歩を踏み出されました。
とくに1965年頃からフィンガー・トレーニングの研究を始め、多くの有名なピアニストの手の構造を調べられ、ご主人の御木本美隆様とご一緒にパーティーに出かけられる時でも、ご持参された特殊な器具で、パーティーで演奏されたピアニストの手のデータを採取されるなど、周囲の方々が驚くほどの熱心さで研究をされていました。三重県の鳥羽から東京に戻った頃は、有名なピアニストの安川加壽子様に師事していたこともあったようですが、本格的な指の訓練の研究を始めた1965年以後、手の構造から筋肉、神経、脳の働きに至るまで科学的に調査し、ひとりひとりの演奏家の問題点を解決する丁寧な指の訓練法を考え出されました。
その結果、多くの将来性のあるピアニストを生み出し、国内のコンクールをはじめ、国外のショパン・コンクール、チャイコフスキー・コンクールなど多くの国際コンクールで御木本メソッドの奏法を習得したピアニストの方々が多数、入賞するようになりました。
1972年には、アメリカの音楽雑誌Clavierに研究レポート “A new idea in finger training” を発表されて、その後、日本国内の音楽雑誌にも「御木本メソッド」が転載されました。
2004年には、「御木本メソッド」の内容を要約した『正しいピアノ奏法』という著書が音楽之友社より出版されました。
2009年には、「御木本メソッド」を教える講師たちの団体「御木本メソッドアカデミー」が設立されました。ピアノを演奏するに当って、その “手” で悩む生徒たちを1965年から50年近く指導してきた努力の一つの結実でした。
そしてこのたび、以前より弟子たちの願いであった御木本澄子様の鍛えられた「ピアニストの手」をブロンズ像に残す試みが実を結び完成しました。
昨年5月、彫刻家の今野健太様(元東京藝術大学講師)にお願いしてブロンズ像は出来上ったわけです。
先日、御木本澄子様のご自宅に完成品を運び入れて作品をご覧になって頂きました。その時の感動は忘れません。澄子様も微笑まれてお喜びの様子で思わず胸が熱くなりました。
御木本澄子様は、かねてから「私の人生の半分はピアノ」とおっしゃっていました。
5才の時から始まったピアノ人生は90才を越えるいまも、その“手”を動かすことでピアノへの思いを示されています。
人生の半分は御木本真珠の事業を支える活動をされ、その半分は芸術活動に捧げられたのはピアノに賭ける強いご意志のあらわれかと思います。
今回の「両手のブロンズ」はまさに御木本澄子様の生きてこられた一つの証しであり、この手をみてこれからピアノを習う子供たちに、また教えるわれわれにも「導きの手」になるものと思っております。